ARTIST

デヴィッド・ロバーツ DAVID ROBERTS

バイオグラフィー

【DAVID ROBERTS BIOGRAPHY】
 
 デヴィッド・スコット・ロバーツは、1958年9月13日、米国東部ボストン生まれのカナダ人。育ったのはカナダのトロント。6歳の頃からビートルズやビーチ・ボーイズに夢中になり、ティーンエイジャーの頃は独学でピアノを弾いていた。そしてハイスクールではバンドを組み、自分で歌い始める。

「いつもメロディのあるものに囲まれてた。そうした環境が僕の音楽の原点であり、今でも多くのインスピレーションを受ける場所なんだ」
 
 当時の仲間はハード・ロック好きばかりだったが、彼自身はクロスビー・スティルス&ナッシュやスティーリー・ダン、エルトン・ジョン、トッド・ラングレンなど、ポップでアーティスティックな音楽を好んで聴いた。特にバーニー・トーピンとエルトンの初期作品には、少なからぬ影響を受けたという。そして意外なことに、アートスクールに通っていた時は、ピンク・フロイドの『狂気(DARK SIDE OF THE MOON)』や初期ジェネシスが大好きだったとか。当時は創造性を掻き立ててくれる音楽として接していたが、自分で曲を作るようになってからは、そのストーリー性に注目していた。
 
 このアートスクール時代、デヴィッドは音楽活動から離れ、アニメの世界に進もうと考えていた。アニメは音楽と同じく、幼少の頃から彼のそばにあったのだ。しかしそれに飽き足らなくなり、19歳で音楽活動を再開。ガールフレンドに教えてもらったタレント・コンテストにデモ・テープを送ったところ、これが何と最優秀賞を獲得してしまう。そして副賞として、優勝曲を含む4曲を本格的なスタジオでレコーディングできることに。この時完成させたテープがワーナーのA&Rの手に渡て、いよいよホントのレコーディング契約を結ぶことになった。デヴィッド、20歳の時である。
 
 彼は最初の4曲に加え、アルバムを作るべく曲を書き続けた。が、この作業は簡単ではなかった。せっかく書き上げても出来映えに納得できず、捨ててしまった曲も少なくないと言う。結局プリ・プロダクションに約一年を費やることになり、併行してプロデューサー選びも行なった。だがこちらの人選も難航。決まるまでには、かなりの紆余曲折があった。完成したアルバムはグレッグ・マティソンのプロデュース、ジェイ・グレイドンがエグゼクティヴ・プロデュースとクレジットされている。しかし本当はジェイ・グレイドンが自らフル・プロデュースする予\\\\定だったのに、多忙で手が回らず、こういう形になったと言われていた。ところが今回のインタビューでこれが真実ではないことが分かった。もっと多彩な顔ぶれがプロデューサー候補に並んでいたのだ。

「最初はトッド・ラングレンにプロデュースをしてもらおうと考えた。そこでトッドのコンサートへ観て終演後に会って話をしたんだけど、僕の音楽とは方向性が違っていた。次にアプローチしたのはボブ・エズリンだった。彼はちょうどピーター・ゲイブリエルとの仕事を終えたところだったので、興味を持ってくれた。だけど僕とピーターを比べようとしたんで、ヤメにしたんだ」
 
 憧れていたトッド、大好きだったピンク・フロイドやピーター・ゲイブリエル(=元ジェネシス)を手掛けたボブ・エズリン、すなわち最初はデヴィッド自身の音楽ルーツをそのまま辿った人選だったわけで、これにはビックリ。ただどうやらこの段階では、まだ楽曲も揃わず、アルバムの方向性も定まってなかったらしく、完成型である本作からは、彼らと直接繋がるサウンドは聴こえてこない。だが長期に及んだプリ・プロの制作中、彼の視線は次第にL.A.へ向かい、目指すサウンドが固まってきた。というのも、当時のデヴィッドは時代感覚に敏感で、トップ40やその時のヒット曲の流行パターンを自分なりに消化し、曲作りに反映させていたそう。だからボズ・スキャッグスの人気もクロストファー・クロスの大ブレイクも、しっかりと見詰めてワケだ。そのうえで最初にアプローチしたプロデューサーはジェイ・グレイドンではなく、何とデヴィッド・フォスターだった。
 
 依頼を受けたフォスターは、同じカナダ人というヨシミもあったのか、これを快諾した。ところが現実はシカゴやチューブスのプロデュースに掛かりきりで、半年以上待たないとレコーディングに入れない。そこでフォスターは彼に盟友ジェイ・グレイドンを紹介する。ところがジェイもアル・ジャロウ、マンハッタン・トランスファー、ディオンヌ・ワーウィックとの仕事を抱え、殺人的スケジュールに追われていた。そこで2人は揃って近しい関係のグレッグ・マティソンを推薦したのである。\

「グレッグのことは知らなかった。でも彼のプロデュース作品をいくつか聴いて、実際に会ってみたら、僕と同じ感覚を持っていたんだ。それに彼はL.A.のミュージシャン仲間から大変尊敬されていて、業界にも強いコネクションを持っていた。ちょうどマイケル・ジャクソンの『THRILLER』に参加していてね。僕をクインシー・ジョーンズに引き合わせてくれたんだ。その日マイケルはスタジオに来てなかったけれど、L.A.のトップ・ミュージシャンがどのように仕事を進めているのかをナマで目撃できたのは素晴らしい経験だった」
 
 グレッグ・マティソンといえば、ラリー・カールトンのグループの名参謀として名を上げたキーボード奏者。スティーヴ・ルカサーやジェフ・ポーカロを従えたグレッグ・マティソ\\ン・プロジェクトの作品『THE BAKED POTATO SUPER LIVE!』(82年)も有名である。ジェイとは60年代からの付き合いで、一緒にドン・エリスのビッグ・バンドに加入して本格的なプロ活動を始めたという深?い仲。70年代後半はジョルジオ・モロダーのブレーンとして活躍、ドナ・サマーの全米No.1ヒット<MacArthur Park>のアレンジで高い評価を得た。その後もアレンジャー/プレイヤーとして活躍。プロデューサーとしては、イタリア人シンガー:アレン・ソレンティのL.A.録音盤『DI NOTTE』でジェイと制作を分け合ったあたりが仕事始めと思われる。特に本作を手掛けた82年は、グレッグにとって当たり年。ベイクド・ポテトのライヴ以外にも、彼がプロデュースしたトニー・ベイジル<Mickey>とローラ・ブラニガン<Gloria>が全米チャート1?2位を独占する嬉しい事件が起きていた(ビルボード誌12月11日付)。
 
 こうしてグレッグ・マティソンが現場の舵取りを担うことになったが、結局ジェイも制作全体を監督しながらギタリストとして参加、フォスターもセッションに駆けつけることになった。それからはトントン拍子に仕事が進み、数週間でアレンジが完成する。3人目のアレンジャーとしてクレジットされたテリー・マッケオウンは、デヴィッドの当時のローカル・マネージャー。他ならぬワーナー・カナダとの縁を取り持った人物であり、確かな耳を持つ重要なアドヴァイザーでもあった。 \r
 TOTOのメンバーやビル・チャンプリンらを集めたのは、グレッグとジェイだ。いつしかTOTOの大ファンになっていたデヴィッドは、グレッグに「参加して欲しいミュージシャンはいるか?」と尋ねられ、スティーヴ・ルカサーなど数人を挙げた。無理を承知で、である。だがグレッグはその全員を呼んできた。これにはデヴィッド、大感動。

「今でも、ハリウッドのサンセット・サウンド・スタジオに初めて入った時のことを思い出すよ。そこにはキーボードの僕と一緒に、ルークとジェフ&マイク・ポーカロがいたんだ。僕は世界最高のメンバーと自分の曲をジャムることに少しビビっていた。でも彼らはプロフェッショナルで、すぐに僕の居心地が良いようにしてくれたし、みんなで僕の意見を訊いてくれた。ホントにエキサイティングだったよ」

 こうして生まれた全10曲。もちろんすべてデヴィッドの作品なのだが、この楽曲クオリティの安定感は、とても新人シンガー・ソングライターのレベルではない。思うにオープニングこそTOTO/ルカサー色濃厚なハード・ドラヴィング・チューンだけれど、本作の真骨頂はメロウなスロウ・チューンやライト・ファンク・フィールのミディアム・グルーヴの方にある気がするのだ。ここから著名アーティストによるカヴァーが3曲生まれたが、そのどれもそうしたタイプの曲ばかり。レコーディング契約を得たデヴィッドは、自分自身が作れる最高の曲を書こうと自分に大きなプレッシャーを課していた。その中に、あとから自分で「このメロディは一体何処から浮かんできたんだ?」と思うようなマジカルな曲があったという。… 続きはライナー・ノーツにて


VSCD-3343 『オール・ドレスト・アップ.』ライナー・ノーツより抜粋 
Text by Toshikazu Kanazawa (www.lightmellow.com)

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