古代エジプトの豊穣の女神からその名をとったガールズ・バンド、アイシスは、63年イギリスで結成されたエスコーツにそのルーツを見ることができる。ポーランド生まれのゴールディー・ゼルコーヴィズを中心とした、当時としては異色のR&B系ガールズ・バンドは、やがてゴールディー&ジンジャーブレッズへと発展。ローリング・ストーンズ、アニマルズ、キンクス、ヤードバーズらとステージで共演もした彼女らは、ニューヨークのペパーミント・ラウンジでプレイしているところを、アトランティックのアリフ・マーディンに見いだされ、レコード・デビュー。結局ジンジャーブレッズは数枚のシングルをリリースするにとどまり、65年に当時のアニマルズのアラン・プライスがプロデュースした、「Johnny Remember Me(霧の中のジョニー)」 で知られるジョン・レントンのカヴァー曲「Can't You Hear My Heartbeat?」(全英25位)が唯一のヒット曲だったが、今でもブリティッシュ・ビート・マニアの間ではカルト的な人気を集めている。
やがてグループを脱退したゴールディーは、ジェニア・レイヴンと改名、アメリカのブラス・ロック・バンド、テン・ホイールズ・ドライヴに加入、『Construction No.1』等の3作に参加したのち、ソロに転向、『Genya Raven With Baby』等の作品をリリースする一方で、デッド・ボーイズの『Young, Loud And Snotty』、ロニー・スペクターの『Siren』等のプロデュースを手がけ、"ニューヨーク・パンクの大姉御"として名を馳せる。
一方ジンジャーブレッズ解散後、目立った活動のなかった元メンバーの2人、キャロル・マクドナルド(リード・ヴォーカル、リズム・ギター)とジンジャー・ビアンコ(ドラムス)は、73年ニューヨークで、女性ばかりのブラスを加えた、ファンク・ロック・バンドを結成。他のメンバーは、スージィ・ゲッツィ(リード・ギター)、ローレン・ドレーバー(トランペット)、リバティ・マタ(パーカッション)、ステラ・ベース(ベース)、ローリー・バイネンフィールド(トロンボーン、ヴォーカル)、ジーニィ・ファインバーグ(テナー・サックス、フルート、ピッコロ)という総勢8人の大所帯だった。
彼女らは「アイシス」と名のり、ニューヨークのクラブでプレイをはじめ、1910フルーツガム・カンパニー、レモン・パイパーズ等のバブルガム・サウンドで一時代を築いたブッダ・レコードにスカウトされる。そして74年、同レーベルから『豊穣と死の女神』でデビュー。メンバーのヌード写真を使ったインパクトの強いジャケットでも話題を呼んだが、音楽性のクオリティの高さでもファンを獲得した。このアルバムのリリース後、大幅なメンバー交替があり、75年にアラン・トゥーサンをプロデューサーに迎え、セカンド『エイント・ノー・バッキン・アップ・ナウ』をリリースするが、レズビアンをテーマにした曲を収録したことで、ブッダ側と衝突してしまい、UAに移籍して77年『ブレイキング・スルー』をリリースしたものの成功を収められず、この直後バンドは解散してしまう。
リード・シンガーのキャロル・マクドナルドは、90年代には自身のグループ、ダーティー・ブロンズを率い、また近年はソロとしても活動を続けていたが、解散後のメンバーは音楽シーンの表\\舞台からは退いていた。しかし90年代に巻き起こったフリー・ソウル/レア・グルーヴのムーヴメントの中でネタに使われたことから再評価の気運が高まり、2001年、マクドナルド、ビアンコ、バイネンフィールドを中心に再結成が実現。ニューヨークのクラブを中心に活動したが、残念ながらマクドナルドは今年3月に他界した。時代に先駆け、ガールズ・バンドの先鞭をつけたミューズ達の中でもユニークな音楽性を前面に押し出したのがアイシスだった。
古代エジプトの豊穣の女神からその名をとったガールズ・バンド、アイシスは、63年イギリスで結成されたエスコーツにそのルーツを見ることができる。ポーランド生まれのゴールディー・ゼルコーヴィズを中心とした、当時としては異色のR&B系ガールズ・バンドは、やがてゴールディー&ジンジャーブレッズへと発展。ローリング・ストーンズ、アニマルズ、キンクス、ヤードバーズらとステージで共演もした彼女らは、ニューヨークのペパーミント・ラウンジでプレイしているところを、アトランティックのアリフ・マーディンに見いだされ、レコード・デビュー。結局ジンジャーブレッズは数枚のシングルをリリースするにとどまり、65年に当時のアニマルズのアラン・プライスがプロデュースした、「Johnny Remember Me(霧の中のジョニー)」 で知られるジョン・レントンのカヴァー曲「Can't You Hear My Heartbeat?」(全英25位)が唯一のヒット曲だったが、今でもブリティッシュ・ビート・マニアの間ではカルト的な人気を集めている。
やがてグループを脱退したゴールディーは、ジェニア・レイヴンと改名、アメリカのブラス・ロック・バンド、テン・ホイールズ・ドライヴに加入、『Construction No.1』等の3作に参加したのち、ソロに転向、『Genya Raven With Baby』等の作品をリリースする一方で、デッド・ボーイズの『Young, Loud And Snotty』、ロニー・スペクターの『Siren』等のプロデュースを手がけ、"ニューヨーク・パンクの大姉御"として名を馳せる。
一方ジンジャーブレッズ解散後、目立った活動のなかった元メンバーの2人、キャロル・マクドナルド(リード・ヴォーカル、リズム・ギター)とジンジャー・ビアンコ(ドラムス)は、73年ニューヨークで、女性ばかりのブラスを加えた、ファンク・ロック・バンドを結成。他のメンバーは、スージィ・ゲッツィ(リード・ギター)、ローレン・ドレーバー(トランペット)、リバティ・マタ(パーカッション)、ステラ・ベース(ベース)、ローリー・バイネンフィールド(トロンボーン、ヴォーカル)、ジーニィ・ファインバーグ(テナー・サックス、フルート、ピッコロ)という総勢8人の大所帯だった。
彼女らは「アイシス」と名のり、ニューヨークのクラブでプレイをはじめ、1910フルーツガム・カンパニー、レモン・パイパーズ等のバブルガム・サウンドで一時代を築いたブッダ・レコードにスカウトされる。そして74年、同レーベルから『豊穣と死の女神』でデビュー。メンバーのヌード写真を使ったインパクトの強いジャケットでも話題を呼んだが、音楽性のクオリティの高さでもファンを獲得した。このアルバムのリリース後、大幅なメンバー交替があり、75年にアラン・トゥーサンをプロデューサーに迎え、セカンド『エイント・ノー・バッキン・アップ・ナウ』をリリースするが、レズビアンをテーマにした曲を収録したことで、ブッダ側と衝突してしまい、UAに移籍して77年『ブレイキング・スルー』をリリースしたものの成功を収められず、この直後バンドは解散してしまう。
リード・シンガーのキャロル・マクドナルドは、90年代には自身のグループ、ダーティー・ブロンズを率い、また近年はソロとしても活動を続けていたが、解散後のメンバーは音楽シーンの表\\舞台からは退いていた。しかし90年代に巻き起こったフリー・ソウル/レア・グルーヴのムーヴメントの中でネタに使われたことから再評価の気運が高まり、2001年、マクドナルド、ビアンコ、バイネンフィールドを中心に再結成が実現。ニューヨークのクラブを中心に活動したが、残念ながらマクドナルドは今年3月に他界した。時代に先駆け、ガールズ・バンドの先鞭をつけたミューズ達の中でもユニークな音楽性を前面に押し出したのがアイシスだった。