多くの人が、自分のことをパンクの大貫、とかパンクと固く結びつけているように思う。確かに、パンクが生まれた頃、日本人でパンクにすぐに飛びついた人間のひとりかとは、今でも思っている。
でも、自分的には、大貫=パンクという思い込みには実際のところ、あんまり納得はしていない。というのも、パンクは大きな関わりを自分にもたらした事件のひとつではあるけれど、音楽評論家として、70年代初めから仕事をして来て、パンク以外にも大きく人生を左右した事件、現象はほかにも少なくないから。最初にイギリスにレディング・フェスを見に出かけた1973年の夏から、およそ10年間は毎年一度以上はロンドンに出かけていた。
今ではある意味「神格化」されているようなバンドのひとつ、QUEENに遭遇したのもその頃で、日本人の評論家でいち早く彼らを賞賛したのは、この自分だと自負しているし、ほかにも故ロリー・ギャラガーや同じく故スティーブ・マリオットのバンド、HUMBLE PIEとかにもおおいに心奪われ雑誌で記事を書いたりしていた。
とはいえ、パンクの衝撃もハンパではなく、パブ・ロックの後を追うように生まれたロンドン・パンクは、そのファッションや過激な発言とともに、ご承知の通り、世界中をてんやわんや、激震させ話題の的となったのも事実。
そして、何事によらず影響されやすい自分は、最初はパブ・ロックの、例えばDr.Feelgoodとかをまねた、英国60年代ブリティッシュ.ビートみたいなバンドを組んで、まぁ、コピーとかで楽しく仲間たちと活動していた。そのバンドは当初はラモーンズなどもやったりしていたけど、やがてロンドン・パンク寄りに傾き、最終的にはピストルズの「アナーキー」や「ジェネレーションXの「ユア・ジェネレーション」、クラッシュの「ロンドンは燃えている」などのコピーをするようになった。他の曲は、60年代のヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」とかキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」あたり。
76年から78年頃までそんな感じでやっていた。そこのメンバーで、ベース担当の人が、今は世界的に活躍中の画家/アーティストの金谷真クンで、彼とは雑誌「ポパイ」の編集部でバイトしてた時に、イラストレイターで出入りしていて自然に話すようになり、趣味が似てる、ということで仲良くなった。やがてバンド作りを始め、若手だったノン(ギター)、トシ(ドラム)を集めて4人組で活動開始。当初はトーキョー・ヤードバーズと名乗り、その名の通り、60年代ビートのコピーバンドだった。そこにパンクが出て来て、一気に日本の一部の音楽シーンも変わり始め、自然と自分らもそちら方面にシフトチェンジ。で、名前も東京セックス・ピストルズと改名し、ロンドンで買い込んで来たヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインし、マルコム・マクラーレンが開いたショップ「SEX」の商品をみんなで着て、ライブに臨んだりしていた。
その頃はパンクがこんなにも大きなブーム、ムーブメントになるなんて想像もしなかった。まして、あれから40年近くたってもその名前とスピリットが一部とはいえ、音楽ファンの心に宿っているとは!バンドはその後、すぐに解散し、メンバーみんな散りじりに。それが、数年前に突然、金谷くんから連絡があり、東京で個展をやるから見に来てよ、とのこと。そして、ようやく、自分のことを語りはじめ、ジャマイカに10年以上もいたこととか、ニューヨークで絵画の勉強を再開してそれなりに稼げるようになったとか、いろいろ。自分にはビックリの連続だったけど、彼はケロリとしていた。
パンクが出て来た頃に一緒に遊んだり、学んだりして、その後はまったく音信不通だったのがいきなり現実世界に現れた彼。とにかく、昔からアーティスティックだったけど、今もそれは変わってないようだ。友だちとして嬉しい限り。彼のHPも是非見てみて下さい。
http://www.makoto-arts.com/