<Verse 8>
マーガレット・ヘドリック
日本に長逗留することになってしまい、ここVIVIDでもデスクが設けられ、海外アーティストの招聘、アルバム制作をやっている訳なんですが、私のクライエントのツアーや作品のPR活動の中で急激に親しくなった、インターFMのDJジョージ・カックルのお蔭で、私が高校、大学時代にバンド活動をしていたジョンソン基地や、横田基地、立川基地の思い出話にいつもなっちゃうのです。11月に来日したケンとメリーのメリーさんことダイアン・クレイも私と同じ歳なので、同じ時期にジョンソンと横田に住んでいて、ジョージは1つ年下のダイアンの弟と同級生だってことが判明したり、とにかく、毎週木曜日に横浜のSTOVE’Sで会う度に同窓会みたいに盛り上がっています。それで、私もその当時の思い出の1つについて書いてみたくなってしまいました。我がアンティリーズの活動については何時かまた書きますが、今日は少々メランコリーに行きます。
1981年秋、アラバマ州のハンツビルからジョージア州アトランタ経由で、フロリダ州フォートウォルトンビーチへ向かうフライトが最終着陸態勢に入り、降下を始めた。視界いっぱいになる程の、大きな滝の真っ只中に居る様なランディングライトに照らされた大雨を窓から見つめながら、マーガレットと一緒に過ごした楽しい時間を回想していました。そして、6年ぶりに再会することに緊張感を頂いていました。しかも、6年も会っていないのに、お別れを言いに行ったのですから。
マーガレットに初めて会ったのは、73年で、米空軍立川基地でした。彼女は未だ9歳の可愛い子供で、そこに駐屯していた空軍将校のヘドリック家の長女。もちろん、彼女の両親のジムとナンシーに招待されて、一家を尋ねたので、特に9歳のマーガレットに会いに行ったのではないです。確か、一家がモルモン教徒であり、私の妹がやはりモルモン教会に行っていた事で知り合いになり、この招待を受けたのだったと思います。
その訪問の後、マーガレットは学校が休みの時など、ちょくちょく私の実家に遊びに来るようになりました。私が運転をしていない車の中では、彼女は何時も私の膝に乗っていました。もう、彼女の仕草の全てが可愛くて堪りませんでした。でも、それはもちろん恋愛感情ではなかったですよ。何しろ9歳の子供だったのですから。私は当時18歳でした。今の年になってみると、9歳下の女性なんてちょうど良いのですけどね!
さすがにマーガレットと過ごした時を思い出そうとしても、断片的にしか思い出せません。何といっても彼女と何かを話し合ったなんて事は無かった訳ですから。
そうですね、立川の駅前の食堂みたいなお店で中華そばを食べて、お箸の使い方を教えてあげたこととか、ギターが弾きたいっていうので、膝の上で教えてあげたこと。それから、75年に彼女の家族がアラバマに引き上げちゃう直前に、アンティリーズの渡米コンサートが高田馬場のビッグボックスで有り、そのステージに花束を持ってきてくれたこと。そして、やはり同じ夏に私の故郷熊谷の夏祭りにユカタを着せて連れて行ったことくらいでしょうか。後は、車の中で、彼女が私の膝の上で寝てしまった時の天使のような寝息ですね。最後は、アンティリーズで渡米した時、1975年9月の初め頃にハンツビルを訪れ、バンドの4人で彼女の両親の家に何日か居候させてもらったのですが、我々がハンツビルを出発する朝に、マーガレットは学校へ行かなくてはならず、未だ、アンティリーズの他の3人が寝ている中に、日の出直後の透き通ったアラバマの朝の光の中で、お別れをしました。私が片膝をついて彼女を抱きしめたのを覚えています。彼女はピンク色の地に細い白のストライプが入った可愛いワンピースを着ていました。彼女のほっぺたにキスをすると、彼女も私の頬にキスをし、それから一目散に学校へ向かって走って行ってしまいました。一度も振り返らずにです。
目の前でキラっと光ったのが、ヘドリック家の庭の芝の朝露なのか、自分の涙なのかって思いながら家の方へ振り返ると、キッチンのドアの処に、マーガレットのお母さんが静かに立っていて、涙を流していました。もう何にも言わずにお母さんと暫く抱き合っているしかなかったです。
バンドの他のメンバーの増子も、樫村も、池田も、皆今回の旅行中に何度もセンチメンタルな状況を体験して来ていましたので、ここでの私を冷やかすような事が無かったのには感謝しています。
さて、80年の夏です。ガーディナに住んでいた私にマーガレットから電話が有りました。
それまでもずーっと文通をしていたのですが、この年、彼女の16歳の誕生日に養殖真珠のネックレスを贈ったお礼の電話だったのです。マーガレット16歳の夏です。アメリカでは16歳の誕生日は人生の1つの大きな節目となります。マーガレットもついに16歳になった訳です。その電話で「カズ、ガールフレンド居るの?」っていきなり尋ねられました。その時は未だ元妻のジェニーにも出会っておらず、当時付き合っていたジョイとは何だか良く分からない関係でしたし、これって決まった子は居ませんでしたので、「ノー、いないよ・・・」って答えました。すると「私もよ、ずーっと貴方の事が好きだったの!だから他には誰もいないわ!」って言うのですよ!これにはちょっと驚かされました。嬉しいのと、ちょっと困ったのとごちゃ混ぜでした。「私のこと好き?」って言うので、「もちろん好きだよ!」って答えるしかなかったですね。実際に好きでしたから。ちょっと違った感情だとは思いますけど。でも、近いうちに彼女に会いに行こうと思い、それからは、実際に彼女を恋愛の対象として考え始めたことも事実です。そうこうしている中にジェニーと出会い、結婚をすることになっちゃったのです。そこで、たまたまハンツビルのアメリカ航空局での仕事も入って来たこともあり、ジェニーとも相談の上、マーガレットに会いに行くことにしたのでした。
フォートウォルトンビーチはフロリダ州のパンハンドルって呼ばれる、フロリダ半島の北西の付け根の所で、ちょうどフライパンの柄の部分に当たる処に有ります。ペンサコーラと言うブルーエンジェルスの本拠地として知られた町の隣町です。
小さな空港でしたのと、そこへのフライトは4,5人しか乗っていませんでしたから、ゲートで出迎えてくれた18歳になったマーガレットは一目で分かりました。小さい頃のブロンドの長い髪はショートカットになっていましたけど、そのままの顔でした。背は私とちょうど同じ位に伸びていましたので、抱き合うのに膝をつく必要は有りませんでした。
そこから彼女の運転で約1時間程で彼女の家に着きました。リビングルームには、アラバマから引越しした時に持ってきたピアノが置いてありました。これはお母さんのナンシーが弾いていたものです。その時はマーガレットもピアノを弾き、学校や教会のコーラスもやっていました。これは私の影響とのことでした。
さて、その晩は家族は遅くまで帰ってこなかったと思います。父親のジムには2,3回会いましたが、それ以外には殆ど誰にも会わなかったと思います。私はマーガレットに会いに行ったのですから、他の人達が目に入らなかったのでは無いでしょうか? 食事もマーガレットが作ってくれて、2人のみで食べました。寝るのは、私がマーガレットのベッドで寝て、彼女は弟のベッドに寝ていたと思います。
マーガレットと2人で、ちょうど連弾をするようにピアノの前に座り、私がジェニーと結婚することになったことを話しました。すると、彼女はこちらを向かずに、ピアノの譜面台の楽譜を見つめながら、静かに微笑みました。そして、
So many nights I sit by my window
Waiting for someone to sing me his song
So many dreams I kept deep inside me
Alone in the dark but now
You’ve come along
You light up my life
You give me hope
To carry on
You light up my days
And fill my nights with song…………
(from “You Light Up My Life” by Joe Brooks)
を歌い出しました。
彼女は涙一つ流しませんでしたが、私の方は、どうにもならない状態になっていました。
彼女が歌い終わった時には、雨も止んでいたと思います。彼女の鼓動が聞こえて来るような静かな夜でした。まるで映画のシーンみたいですよね!
翌日は、彼女のカレッジのキャンパスに行ったり、ピッツアを食べたりしましたが、大半は、この”Light up my life”のデュエットを何度も何度も練習して1日を過ごしました。
今思い出しましたが、その夜には、それを両親の前で披露しました。ナンシーがここで涙していたのと、ハンツビルの朝でのシーンのイメージが一緒になってしまいました。
結局、ジェニーに理由を話した後で、翌日LAに戻るのを1日延ばし、マーガレット達の行っている教会で、このデュエットを披露することになってしまいました。
それ以外に2人で話した事など、全く覚えていません。恐らく、そうして歌い続けていなかったら2人して泣いちゃうしかなかったからだと思います。
こういう時間を持たせてくれたジェニーに心から感謝しています。
この数年後にマーガレットはテネシー州に引越し、そこで婚約をしたのですが、結婚式の寸前で相手と別れちゃった事を知らせて来ました。その後、連絡が途絶えてしまい、私が97年、98年とテネシー州ナッシュビルで夏を過ごした時には、彼女は既にテネシーには居ませんでした。