So-Cal Connection <Verse 1>
それまでの学生ビサから「Iビサ」と言う報道ビサへの2年掛かりの変更が出来た1980年、FM東京の番組、三菱ミラージュの”I Love USA”の仕事が終わった頃に、今度は名古屋電通から、FM愛知用に1時間番組を毎週制作するプロジェクトが入って来まして、これを私が担当することになりました。この1時間番組はミスター・ロックンロールとして知られていたブライアン・バーンという当時KRTH101のDJを使っての音楽番組で、その合間にLAのローカルニュースとか、サーフ情報、コンサート情報を組み入れたものでした。
KRTH101は基本的にオールディーズというか、クラッシックロックのステーションでしたので、ビーチボーイズ、ビートルズ、エルビス・プレスリー等を主体に、イーグルスとかアメリカの様なカリフォルニアサウンドを盛り込んだ番組となりました。もちろん、選曲は私とブライアンがやりました。この他に、個人的なプロジェクトとして、CBSソニーから独立して、フリーのグラフィックデザイナーとして活躍し始めた田島照久さんから、パイオニアの情報誌でハイファイウェーという月刊誌の1コラムに記事を書き、写真を撮る仕事を頂きました。最初はLAのミュージシャン達のインタビューが中心でしたが、そこからオーディオファイルといって、非常にマニアックなステレオコンポーネントを組んでいる人達のインタビューのコラムも頂きましたので、2種類の記事と写真を撮らせて貰うこととなりました。
このミュージシャンのインタビュー記事のコラムは確か”Palm Point”と呼ばれていたと思いますが、ジャクソン・ブラウンとデビット・リンドレーのインタビューの要請が入りました。デビット・リンドレーはそれまで、ジャクソン・ブラウンの音楽にとっては欠かせない存在でしたが、常にバックアップミュージシャンでした。ジェイムス・テイラーでもそうでしたし、とにかく、物凄い才能を持っているのに、メインアクトと成れないでいた訳です。そこで、ジャクソン・ブラウンがデビットの初のソロアルバムをプロデュースして、これがアサイラム・レコードから発売されることとなっていたのです。
サンセット・ブルバードのクロスロード・オブ・ザ・ワールドの中に有る、ピーター・ゴールデンの事務所でジャクソンとデビットのインタビューをすることと成りました。
このインタビューの朝、当時所属していたミュージックライフUSAの事務所でカメラとかテープレコーダーの準備をしていると、私の上司が、「これデビットに持ってってあげなよ」と陣羽織を私に下さいました。
ジャクソンのインタビューを始める前に、既にデビットは来てくれていて、1時間以上もジャクソンのインタビューと撮影が終わるのを待っていてくれました。さて、デビットの番です。早速陣羽織を渡すと、直ぐにそれを着てくれて、ゴールデンの事務所の外のクロスロード・オブ・ザ・ワールドの中庭で、ポーズを取ってくれました。私は別に何も意識せずに1ロール分の写真をモノクロで撮り、インタビューに入りました。ジャクソンにしても、デビットにしても私の憧れのミュージシャンでしたので、同じ部屋にいるだけで私は興奮を隠すのが大変でした。
デビットには主にソロアルバムについてインタビューをしましたが、ジャクソンの方は、これといった活動中では無かったので、ごく一般的な話と、やはりデビットのアルバムについてを尋ねたのですが、この前日にジャクソンが始めて針の治療を受けたとかで、異常に元気になってしまい、口が止まらなくなってしまったことを話してくれたのを克明に記憶しています。
それから、休暇でモロッコに行った時で、砂漠の中をキャラバンしている時に、途中でモロッコ人のヒッチハイカーを運転手が拾い、その男がジャクソンの隣に座ったのですが、非常に窮屈な状態で、しかも暑かったので、着ていたシャツを脱ごうとして、窓とジャクソンの間で身動きが出来ない状態になってしまったそうなのです。すると、その男はモズラム(イスラム教徒)のくせに、「ジーザス・クライスト」って言葉を吐き捨てたのがおかしくて堪らなかったって話をしてくれたのを覚えています。
さて、翌日このセッションの写真のコンタクトシートが上がりました。その中からジャクソンとデビットにプレゼントする写真を選び、8x10のサイズ(日本の四つ切と思います)に引き伸ばして、夫々に送りました。
その年の11月のある晩、当時の私の妻ジェニーと我が家のキッチンで食事の後片付けをしている時に電話が鳴り、私が出ますと、それはジミー・ワクテルといって、ジェイムス・テイラーのギターを弾いているワッディー・ワクテルのお兄さんからでした。「カズ、デビットがカズが撮った写真をアルバムカバーに使いたいって言っているんだけど、ネガを持っている?」って言うではないですか。一瞬何を言われているのかよく分りませんでしたが、だんだん理解が出来てきました。「あー、もちろん持っているけど、それをどうしたらいいの?」と聞きますと、「借りたいんだ。なるべく早く持って来てくれないか?」ということになり、ジミーの住所を書き取りました。ギャラの交渉は直接アサイラム・レコードとしてくれということで、その担当者の名前と電話番号も貰いました。
電話を切ると、ジェニーがこっちをじーっと見つめていました。もう信じられないことです!自分の写真がデビット・リンドレーの初のソロアルバムのカバーになっちゃうなんて!2人のキッチンはまるでオリンピックで金メダルを取ったような興奮の坩堝と化し、抱き合って、飛び回りました。
こうして、私は写真家になっちゃったのです。 <続く>